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nezi-maki soundsystem blog

nezi-maki soundsystem(ねじまきサウンドシステム)というバンドをやっています。そのニュースや所感。

シナモンロールと私

最近も引き続き、早起き音楽製作が続いていて、身も心も快調な日々です。聴いたら驚くだろうなぁ。

 
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※今朝書いた荒削りの歌詞。

 

そして5月16日の夜。下北沢ろくでもない夜というライブハウスで弾き語りのライブをします。ぜひ見に来てください。

 


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仕事と仕事の間、という時間が出来てしまって、タリーズコーヒーに座っている。ジャズが流れて、程よく空いている。一時間くらい過ごすのでトールサイズのコーヒーを頼んで、シナモンロールを温めてもらって、食べた瞬間に「そういえばここで、前回もシナモンロールを食べた」と気がついた。今回も美味しい。連休前の開放感もあいまって、良い気分だ。なので短くシナモンロールについてブログを書きたい。

 

そもそもシナモンロールを食べはじめたのはいつ頃だったろうかと振り返ると、高校の頃だ。学校と実家の間に熊本市の繁華街があって、その街の脇を自転車で通って家に帰るのだが、部活もしていない人間は体力はある上に、何だか鬱屈しているものだから、繁華街のCD屋や本屋なんかに吸い寄せられて、日が暮れても帰る気にならない。

 

高校生と言うと背伸びする年頃なので、僕も熊本市の本屋やCD屋で享受できる限り、背伸びした物に触れた。もともと本を読まなかったのだが、村上春樹(よく名前聞くけど、どうせ大衆受け狙いの作家だろ!?)の本を読んだら「本って素晴らしいね」と考えを改め、芋づる式に、本に出てくるアメリカの小説だとか、ジャズやロックのアルバムを買い始めた。春樹ファンは周りにも多かったけれど、ビックスバイダーベックとかウディハーマンとかにまで背伸びをした同級生はいなかったのではあるまいか(いたのかもしれないが)。

 

そんなCD屋と本屋のルート上にパン屋があって、そこにシナモンロールが売っていたわけだ。もう閉店して、今は金券ショップか何かになっていると思う。当時、そのパン屋は開店したばかりで、僕はCDを買い終えて、日も暮れた時間によくそこを訪れてシナモンロールや小さいパンを買った。暗闇の中でパン屋の袋とリュックをカゴに入れて自転車で帰った。実家には夕飯があるのだから、買わなくてもいいのにと今なら思う。

 

夕飯をそこそこに済ませて、コーヒーを作り、そのコーヒーの入ったポットとシナモンロールを持って部屋に行き、音楽をかけて、一人でそれらを飲んだり食べたりするわけだ。

 

そういう時の、背伸びした音楽とか、小説とか雑誌とか、胃の膨れ上がる感じ(胃って疲れるんだ、と解るのもこの頃だろう)とか、コーヒーのせいで寝付きが悪くなる感じとか、そういうものたちがシナモンロールという食べ物にべっとりとまとわりついている。愛おしい食べ物だ。

 

こうしてタリーズではシナモンロールを注文することになってしまうのだ。おしまい。

 

インターフェイスについて

世の中で最も無益な行為というのはブログだろうと思う。ワインを飲みながら、おもむろに三つ折りキーボードを開いて、ケータイに書き込む。せっかくのお休みだ、と、あくせくしてしまうのは、コスパに囚われた行動だ。僕をごらん。さっきブログを書いたと思ったら、CDを買いに出かけ、戻ってきて本日2本目のブログを書いている。そして、いささかも後ろめたさがない。何たる贅沢。何たる時間の大盤振る舞いだろうか。


繰り返しになりますが、5月16日(火)の夜に下北沢ろくでもない夜というライブハウスでソロの弾き語りをします。詳細は後日。来てね。


ここからブログ。僕はこうしてブログなんか書いたり、Twitterに書いたりする割に、ニコニコ動画とか2chなんかは書き込んだことがない。こういうのは個人差があるようで、例えばニコニコと2chにしか書かないという人も居ると思う。

 

前にニコニコ動画のコメントをどうしても書けないということを言っている人がいて、そうだよねと思っていたら、あの匿名の言葉が弾幕になってくるところが、卑怯者っぽくて嫌だということだった。

 

確かにあのシステムは、人を攻撃する言葉が飛んでいたりすると、人間のいやらしさを感じる。一方で皆で楽しそうにしているときもあって、そういうときは、あのサービスが続いているのはこういうワイワイしたい欲求を手軽に叶えているからなんだろうなと思う。

 

その意味では、あそこには卑怯な振る舞いをしたい人が集っているわけではないのだろうと思う。コミュニケーションの場なのだ。2chなんかもそうなのだろう。

 

ちょっと遠回りな話をするが、僕の親戚で鶏卵農家をしていた家がある。今はリタイアしたのだが、僕も子供の時分、正月なんかにその家に行って、卵をケースに入れるのを手伝った。鶏舎にも行った。ご想像の通り、鳴き声はやかましいし臭いも凄い。たまにケージを飛び出した鶏が通路を飛び跳ねたりしていて、おっかなかった。

 

何となくニコニコや2chに書き込みたくない理由を考えてみると、色んな人の発言がパッと1画面にまとめられると、一人ひとりの心から出た言葉が、グリッドに押し込められ、並べられているような、全体的にけたたましい鶏舎のような印象を受けるからではないかなと思う。あくまで個人的に。

 

はてなブログに書くのだって恥ずかしいことなのだが、1画面に色んな人のコメントが並んでいる場に比べると、安心感がある。ただ、いくつも続けてブログを見ると、僕もあっというまに自分が鶏に見えてくる。

 

それを踏まえると、ある種のコメント画面というのは、卑怯な、ずるい場所である反面、人間らしく扱われていない場所だということも思う。個人的に。

 

これは匿名であるかどうかに限らない。例えば、NewsPicksというサイトがあって、ビジネスパーソンが、色んなニュースを共有して、ユーザーは自分の好きなビジネスパーソンの共有するニュースを知ることが出来る。もちろんコメント欄があり、ここには実名の、立派な大人がニュースについての感想とか提言をコメントで寄せている。

 

つまり、FACEBOOKの最もビジネスパーソンっぽい部分を培養したようなコメント欄なのだが、これもいくつか見ると、結局「何でこう、こんな忙しそうな人たちが、叫び合っているのだろう」という印象を受けてしまう。

 

午後2時。あなたの家に、かつて仕事上で付き合いのあったビジネスパーソンがやってくる。「紅茶、コーヒー、どっちがご希望ですか?」「おぉ、気が利くようになったじゃない。ありがとう。でも今カフェインは摂らないことにしているから、白湯をいただこうかな」といったやりとりを経て、お互いの近況を語る。仕事のこと家族のこと。そうして、雰囲気が和らいでいく中で、「そういえば、知ってます?ヤマト運輸が大変らしくて」。するとビジネスパーソンが口を開く。

 

ところが、あのパッと見のインターフェイスというのは、人の言葉を30件あるコメントの一つにしてしまう。あるいは389件あるうちの。もしあなたが液晶画面を眺め、素直な心で一つ一つの言葉を、あらゆる文脈を想定して精査していくことが出来たなら、多くの意見は妥当なものと感じられるだろう。けれどもインターフェイスが悪い。

 

例えばニコニコ動画のある動画に「佐川に転職しろよ」「再配達有料になったらアマゾン終了www」「アマゾンなくなったら俺餓死」という3つのコメントが投稿された。ところが、画面上には流れず、皆が集う日まで、コメント内容は分からない。

 

コメント投稿者や、動画投稿者、この動画へのコメントを確認したい人々が、翌週の日曜日にドワンゴのコメント確認室に集まる。参加者は皆、匿名性を担保するために、大きなキグルミの中に居る。そして動画投稿者が動画を再生し、コメントが初めて流れる。コメントを確認しに参加した観客は、それぞれ、ある程度匿名性を保ちながら自己紹介をし、なぜこんなことを投稿したのか訊く。

 

(一人目のコメントさん)僕は、もともとヤマト運輸で働いていたんです。当時は佐川さんのほうが忙しいって有名だったし、福利厚生なんかもヤマトのほうが良かったんで。でも本当に忙しくなってきたんすよ。通販で。で、話によると佐川さんもキツイらしいけど、今は幾分マシ、て噂があったんですよ。それで、佐川さんに行かれた方が、ドライバーさんは仕事が楽になるんじゃないかなって。

 

(二人目のコメントさん)私は、コンビニで働いているんですけど、夜間なんですね。いつオーディション入るかわからないんで。で、コンビニで物買うと高いからアマゾンでまとめて買ってるものとかも多くて。でも午後5時くらいにしか受け取れなくて、再配達も結構あったので。アマゾンが、あ、ヤマトが?再配達有料にしたらムカつくなって。

 

(三人目のコメントさん)私は遊び半分で書きました(笑)。なんか引きこもりっぽいこと書く人多いじゃないですか。ここ。で。自分も見てて面白くて、こういうの書けば受けるのかなって。そんな感じで投稿したら、なんかシステム変わったんですか?匿名のままだけも、一人ひとり集まって確認するシステムになった?らしいので。でもこのビル凄い大きいですね。

 

コメント確認者は特段異論もなく、お互いのヤマト運輸エピソードや、ドワンゴのビルの広さについて語らい、結構盛り上がった。みなある程度の礼節を持っている。夕方になると、キグルミを脱いだ汗だくの参加者が匿名性を守るため3分に一人の間隔で銀座に放たれていった。

意欲と戦争

nezi-maki soundsystemではじりじり録音を進めています。昨日はよしえ君のバイオリンを録った。録音は続きます。

 

https://www.instagram.com/p/BS5ld9DDxbi/

 

そして私(小山)のソロライブも決まりました。5月16日(火)の夜。下北沢ろくでもない夜、という名前のライブハウスで、ギターで弾き語りをする予定です。

 

http://69demonai46.com/access/

 

今年はバンドの活動を進めて、ソロライブも増やして、さらに全く毛色の違う音楽の製作もやっていくので、ライブに来たり音源を聴いたりしてもらえたら幸いです。

 

ここからブログ。最近、渡辺一夫という人のエッセイ(「狂気について」)を朝、風呂に入りながら読んでいる。昔は本を大切にしていたのだが、いつしか朝、風呂で安い文庫本を読むのが習慣になってしまい、特に「狂気について」は面白い文章ばかりなので何度も読んでいる。渡辺一夫という人は戦後活躍した、欧州の文学とかルネサンス文化の研究者だそうだ。僕にとってはこのエッセイを書いた人、良いことを書く人、という存在だ。

 

この本に引用されている一節で、印象深いものがある。それは「宿命とは、我々が意欲した結果であり、さらにしばしば我々が意欲し足りなかった結果である」というようなものだ(今バーミヤンに居るので正確な語句は確認できない)。作家のロマンロランの言葉だそうで、ロマンロランは読んだことがないが、含蓄がある気がする。

 

昨日は一日中、北朝鮮のニュースが黄砂だかPM2.5だかのように世間をモンヤリと覆っていた。昨日の僕は暗かった。スタジオに行くまで。そして、この一週間ほど、米朝関係のニュースがあると、何ともドンヨリした。

 

よく、お菓子を買いに行くマツモトキヨシがあるのだが、そこには膨大な商品が陳列されている。棚の前に立ちながら、それがすべて灰になる、あるいは灰としてさえ残らないなんてことになったら、何て虚しいんだろう、まあ、そんなことにはならないだろうけど、でも冷戦時代の人はそんな気分だったのかしら、いや、そうでもないのかしら、というような、変なことを考えた。

 

こういうときに「我々の意欲し足りなかった結果でもある」という言葉はグサッとくる言葉だと思う。平和をもっと意欲せよと言われているように思う。もしコントロールしようのない事態だとしたら、コントロールを意欲せよと言われているような気分だ。市川海老蔵さんが「米朝で勝手にやれ」と言って炎上しているそうだが、わからんでもない。私生活で同じような対立があったら、あんな野蛮な連中、どちらにも関わりたくない。そもそも、こういうときにコネや何かで北朝鮮の中枢と話ができる政治家が日本にいないのは寂しいことだ。キムとトランプを握手させるイノキ、ということが実現したら素晴らしいのになと思う。

 

意欲し足りなさというのは、このように、集団においては歴史を運んでいくような大事なものに思われるため、各方面で集団に何かを意欲させようと啓蒙や提言がなされる。Twitterアプリのニュースタブなんかを開くと、いろんな意欲たちが絢爛と咲き誇っている。

 

一方、個人にとっての意欲はどうだろうか。僕の例で言うと、意欲し足りないことが多い。思い通りに行かないことも多い。かといって毎日悔やんで生きていたら辛いので、何とかやりすごしたりして、個人としての意欲というのは、消えたり灯ったりしながら何とか存続していくものだと思う。もちろん、長い間、ずーっと思い通りに行っていると言う人もいるだろうけれど。多分、そういう人は覚醒剤とかをやっているのだろうと思う。

 

ここでまた本の話だが、内村鑑三という人が書いた「所感集」という本があって、これもたまに風呂場で読んでいる。この本は、100年前くらいに活躍したキリスト教徒で物書きの内村鑑三が、雑誌に書いていたコラムを若い頃から晩年までまとめたもので、一番最後の所感はこんな感じのものだ(まだバーミヤンにいるので厳密ではない)。

 

キリスト教信者の一生というのは歳をとればとるほど良くなる。晩年に一番の幸せを感じる。というのは、彼の計画がうまく行ったからでない。彼の計画はことごとくうまく行かない。にもかかわらず、同時に神の計画がなされていったからだ。」

 

こんな感じ。僕はキリスト教徒ではないが、この文章は、毎回、読むたびに良いことを言っているなと感じる。読むたびにゆっくりとしたサンバがフェイドインしてくる感じがする。そうだ。個人個人は、意欲のし足りなさを感じつつも何とか長生きして、神じゃなくても、何か大きな計画がなされていくのを眺めていった方が幸せだろうと思う。

 

面白いことに、内村鑑三もロマンロランも渡辺一夫も、非戦主義者、平和主義者だった。つまり、意欲しまくった人々なのだろう。戦争はよくないと言い続けることは難しい。戦争はよくない。

 

そんなこんなで僕もこのバーミヤンを出て、意欲を持って生きて、晩年には「計画」とか言って楽しくカルトーラでも聴いていたいと思う昨今だ。今回も長々とありがとうございました。

 

MV : https://youtu.be/2Ij8c4tlvQg?list=PLoWqAMIl1CVUIFY9KtqhhfpeOs_Tp_9qx

Twitter : @nz_mk

外付け○○としての現実

ねじまきサウンドシステムでは引き続き録音、録音に向けた素材づくり、練習とかそういうことをしています。朝ご飯の前に、机に向かって何かしているので、磨かれた何かをお聴かせすることができると思う。動画シリーズ最終回の「ハイライト」もMVの前に、音を作っていて、いい出来になりそう。今後もご期待ください。

 

そんな作業の中で、先日、環境音をたくさん録りに都内を歩き回ったことがあった。そういう素材を使った曲を作っているからなのだが、夕方には足が棒になった。それ以上に、一日中、「ここで立ち止まって録音しよう」とか、「ここはさっきと風合いが一緒だから録らなくていい」とか考えながら歩いたお陰で、翌日まで自分の周りで鳴っている環境音が気になってしまった。

 

そして翌日、外を歩いていると、録音したファイルに比べて現実世界の音が豊かで解像度が高いことにクラクラとした。車が走りすぎるだけで、きめ細かく、倍音が効いた音像が聞こえてくる。といってもこれは当たり前だ。現実なのだから。しかしそんなことを思うのは初めてで、面白かった。

 

これは映像にも同じくらい、またはそれ以上に言える。最近、世の中がきれいでたまらないと思う。といっても、「火の鳥」(©虫プロ)の我王丸のような達観に至ったわけではなく、「なんてリッチな映像が広がっているんだろう。目の前に」というような意味合いだ。何せ解像度がすごい。自分が首を曲げたり、歩いて別の場所に動いたりすると、見事に世界が移ろっていく。音との同期もすごい。もちろん、これも当たり前だ。現実なのだから。ところがこう思ったのは初めてなのだ。

 

逆に言うとCGやなんかの技術の進歩のお陰で現実が豊かだということに気づけたのかもしれない。

 

先日、ゆりかもめに乗っていたら、レインボーブリッジに差し掛かるあたりで線路がぐるりと弧を描く地点があった。車両はいくつもの鋼製のゲートをくぐって、その向こうには鋼製だか樹脂製だかの網があり、その向こうにはお台場の景色やセメント工場や、海や空が見えた。もちろん車両は動いているので、車両を覆う鉄骨は頭上や左右をすみやかに駆け抜けていく。網だって流れていき、それより遥かにゆったりしたスピードでセメント工場や空に浮かぶ雲が、視界の端から端に流れていく。

 

子供の頃、レーシングゲームリッジレーサーとかデイトナUSAとか。)をやっていたときは、こんな風景はみられなかった。平たいサーキットと、平面にプリントされたような観客と、書き割りのような遠景があるだけだった。ちょっと込み入った景色にさしかかると処理落ちしたものだった。今のゲームならもっと、ぬめぬめと描画するのだろうけれど。

 

レーシングゲームのソフトの中にはコースの造形や、車両の制御や、パラメーターの表示やというデータがもれなく準備されていて、プレーヤーの操作に応じて、データを処理して音や画像を届けてくれているのだと思う。ところが、データの総量や処理能力に限界があるので、限られた表現をしているのだろう。

 

ところが現実のデータや対応力にはゲームのような制限がない。言ってみれば世界最大のストレージだかメモリだかなのだ。もちろん不自由もある(どこでもドアなんかは体験できない)。けれども、今ファミレスで白ワインを飲みながら三つ折りキーボードでこれを携帯に打ち込んでいるが、サッとグラスを手に取って右目に近づけ、左目を閉じたらば、右目からグラスの曲面に応じて歪んだ禁煙席の景色が届けられる。この処理だって現実の側が勝手にやってくれるわけで、自分はテレビを眺めるのと同じ労力でこれを享受することができる。現実だから当たり前だが。

 

時間の流れにも同じことが言える。仕事で、数ヶ月ぶりくらいに人に連絡して、「あの件はどうなりましたか?」と訊くことがある。仕事上の関わりなので、まるで縁遠い人で大体遠くに住んでいる。そんな人にかけて、尋ねる。

 

すると「予定通りだ」とか「遅れている」とかいった回答を必ず得られる。しかも「○○が発覚したため遅れている」とか「□□のために中止した」といったディテールが伴っていて、その都度「自分に流れた時間と同じだけの時間があっちにも流れたんだな」と思ってしまう。「なんの話?」と言われることはない。数ヶ月も経っていて、会ったこともないような人が同じ事柄を継続して把握しているのだ。例えば、ロマンシングサガ2なんかでかつて訪れた街に行って人に話しかけても、こんなリアルな反応はしない。当たり前だ。ゲームなのだから。

 

とは言っても、長い人生で突然こんなことを言い始めるのはおかしい。こんな風に現実を眺められたことはなかった。それどころか、何を見てもゲンナリする時期のほうが多かったように思う。なぜだろうか。単純に考えると、ゲンナリしていた時期は現実に見聞きするものに価値を認めず、もっとましな世界があると思っていたのだろう。マシな世界というのは、思い出とか、先々に思い描く何かとか、フィクションとかに引き寄せられていたのだと思う。

 

今もなおファミレスにいるが、ひっきりなしに人々が話していて、店員は歩き、客がやってきて、目の前のワインは速やかに減っていく。お会計はしないといけないが、これを体感すること自体には料金もかからず、望めば70歳とか80歳までこんなレスポンス性に優れたリッチな場所にいられる。来週も肝臓をちょくちょく休めて、長生きせねば。

 

 

文庫本と宇宙船

先日、土曜日にDJマイミクさんにお誘い頂いてDJをした。大変に楽しく、もう大盛り上がりだったのだが、朝起きたら携帯電話が故障していた。充電とかメール着信とかを伝える左上のライトは光るものの、ディスプレイがつかない。寿命だったのだろう。

 

携帯がないと、今や道にも迷うので、日曜の昼に、業者に新しい端末との取り換えを頼んだ。すると月曜、職場に行こうというタイミングに、もう新しい端末が来た。その朝は「今日は一日携帯を見ずに過ごすぞ」と気張っていたので、結局、届いた新しい携帯は部屋に置いて、文庫本を一冊(ポールオースターの『オラクルナイト』)をポケットに入れて出かけた。本は、半分くらい読んだかなというところで持っていった。

 

その日は、移動や休憩の時間は携帯の代わりに本を読んで過ごした。通常なら携帯に手を伸ばしていたろうなという時、手を伸ばすと文庫本があり、続きを読むようにした。すると、思いのほか読み進むことができて、夕方には本を読み終えてしまった。それだけいつもはネットを読んでいたのだ。

 

Kindleアプリで読めばいいのに」という御仁はおわかりになっていない。ここだけの話、携帯電話端末というのは本質的に邪悪なのだ。何度繰り返しても言い過ぎではない、ここだけの話だが、携帯電話端末というのは本質的に邪悪なのだ。そう、気を抜くと他人事を届けてくるのだ。見ちゃうのだ。

 

物理的選択肢として携帯と文庫本を持つのはいいと思う。若干持つべき荷の重さが増えるが。「持ってきたんだから文庫でも読むかな」となる。

 

さもないとネットを見てしまう。今日だって見た。JASRAC、トランプ、恵方巻き、JASRAC、トランプ、恵方巻き。これに対抗するために今はチャンドラーの「プレイバック」を携えているので、何とかサンディエゴで起きる事件とか、官能的なやり取りとか、「初期の村上春樹清水俊二に足向けて寝れないな」というさばさばした文体なんかを楽しめている。

 

今回、わかったのは、こうして本でも読んでいる間は何の問題も、問題設定も、論点整理も、筆者の意見も与えられず、自分の考えとの照らし合わせも、自分の意見の考案も、自分が過去考えたこととの整合性の確認も、意見の表明も、その表明をしたら嫌がる人の有無の調査も、必要ないのだ。もちろん小説で提出される問題はある。でも多くはニュースが提供する問題とは風合いが違う。探偵小説なんかになると提供される問題はゼロに近い。

 

もちろん世の中問題だらけだ。トランプのニュースをみると、我々のような有色人種はことによるとリンチされたり殺されたりする事件が起きるんじゃないかとも思う。人を締め出すということは、残る同類をどうにでもできるということだ。

 

ところがその後ろに、JASRACも、恵方巻きも、バイトのペナルティも、ファミレスの深夜営業中止も押し寄せてきている。とりあえずトランプだけにしておきたい。手に取れる問題は一つくらいだ。

 

そんな人には何しろ文庫本がオススメだ。宇宙船が船外と船内の間に部屋を設けるように、文庫本を差し挟む。するとこれまではシュポッと問題だらけの真空に放り出されていた生活が、何とか船内にとどまれる生活に変わると思う。

※今回の投稿は暇な人のためのものだ。忙しくて日常、何か読む暇もない人はここまで読ませてごめんな。また会おうぜ。

 

数日前に読んだニュース

数日前にネットで読んだニュース。

www.kahoku.co.jp

 

刺し網というのは、漁業をするための網の一種で、ウィキによると「目標とする魚種が遊泳・通過する場所を遮断するように網を張り、その網目に魚の頭部を入り込ませる」そうだ。そこに人の脚の骨が引っかかっているのだから、見つけた人(漁師だそうだ)は驚いたことだろう。

 

陸から5キロの沖合だそうだから、海岸からみたら、水平線までは行かないだろうが、まあ遠くだろう。何事もなかったようにたっぷりと水を湛えて、波をうっていたのだろう。海というのは陸に届く先端こそ恐ろしいが、遠くでたゆたっている分には穏やかなものだ。

 

震災から約6年経った。6年という時間は短くない。そんな訳で、このニュースを見て、不思議な感覚に陥った。震災で2万人近くが亡くなったと思うが、僕はこれまでの人生でこれだけの人が亡くなる災害が起きたことはなく、多くの人と同様に精神にずっしり来た。原発の事故も重なったので混乱は深まったが、それを措いても、2万人近くが亡くなるというのは、帳尻の合わない事象で、宗教的というか、おどろおどろしい経験だった。地獄のようだと感じたものだった。自分に直接の被害はないのだから、今思い返すといい加減な話だが。

 

6年経つと生々しい気分こそ去ったが、そこにゴロッと骨が水面から現れた。どんな天気だったのだろうか。白かったろうか。いずれにせよ、アンチドラマティックに、網が上げられて、引っかかっていたのだろう。

 

DNA鑑定にかけられるそうだが、身元は分かるのだろうか。まだ親族が健在なら、どんな気分になるだろうか。また悲しさが戻ってくるのだろうか。それとも狐につままれたような気分だろうか。

 

いずれにせよ、そういう不思議なニュースだったのでブログを書いてみた。

 


夜の列車に乗って - nezi-maki soundsystem

 

 

 

 

ハイライト作ってます&まじめキネマ

最初に告知を。DJをさせていただきます。サツキさんありがとうございます!

 

【新春】 1/28(土) 「新春四人会」@高円寺thunder 19:00- 3,000円(飲み放題+FOOD付) DJ's:

P-xy

小山(fromねじまきサウンドシステム)

レッキー

マイミク

 

僕は最近聴くCDを持っていって、かけまくります。飲み放題。ぜひお越しを。

 

ねじまきサウンドシステムでは、2015年春から動画を作っては公開する「まじめキネマ」という、動画シリーズを作ってきました。

 

これまでの動画のリスト

https://t.co/8wDnq6PbRp

 

そして最後にアップしたのは昨年夏の「埠頭の二人」でしたが、以後、最終回の「ハイライト」という曲の録音をしております。 この曲はゆっくりした曲で、自信作でもあり、好きだと言ってくれる人も多い曲です。すでにベースとドラムの録音は終わっていて、肉付けをしたりしているところなのですが、長引いています。

 

一度はムチムチと音を加え、それをこの間そいで、また考えを変え、そいで、という風に。でもとても大事な曲なので、一番いい状態で公開しようと思います。かなり待たせていますが、もう少し待っていてください。

 

そして、ここからは動画シリーズについて少し。この期間、公開してきた曲は、色んな手触りの曲を出したいと思って、その通りにやってきました。多面的というか夾雑物的に。各曲、公開時に「ふう」とできあがりを喜んではいたのですが、ちゃんと完成には至ってないぞと、今も手直しし続けています。

 

これらの曲と、未公開の曲と組み合わせたら、花束のようで、さらに粘りのある順番で(それが最近の俺の頭を狂わせる)、お聴かせすることが出来ると思いますので、こちらもご期待ください。

 

それではまた。