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nezi-maki soundsystem blog

nezi-maki soundsystem(ねじまきサウンドシステム)というバンドをやっています。そのニュースや所感。

外付け○○としての現実

ねじまきサウンドシステムでは引き続き録音、録音に向けた素材づくり、練習とかそういうことをしています。朝ご飯の前に、机に向かって何かしているので、磨かれた何かをお聴かせすることができると思う。動画シリーズ最終回の「ハイライト」もMVの前に、音を作っていて、いい出来になりそう。今後もご期待ください。

 

そんな作業の中で、先日、環境音をたくさん録りに都内を歩き回ったことがあった。そういう素材を使った曲を作っているからなのだが、夕方には足が棒になった。それ以上に、一日中、「ここで立ち止まって録音しよう」とか、「ここはさっきと風合いが一緒だから録らなくていい」とか考えながら歩いたお陰で、翌日まで自分の周りで鳴っている環境音が気になってしまった。

 

そして翌日、外を歩いていると、録音したファイルに比べて現実世界の音が豊かで解像度が高いことにクラクラとした。車が走りすぎるだけで、きめ細かく、倍音が効いた音像が聞こえてくる。といってもこれは当たり前だ。現実なのだから。しかしそんなことを思うのは初めてで、面白かった。

 

これは映像にも同じくらい、またはそれ以上に言える。最近、世の中がきれいでたまらないと思う。といっても、「火の鳥」(©虫プロ)の我王丸のような達観に至ったわけではなく、「なんてリッチな映像が広がっているんだろう。目の前に」というような意味合いだ。何せ解像度がすごい。自分が首を曲げたり、歩いて別の場所に動いたりすると、見事に世界が移ろっていく。音との同期もすごい。もちろん、これも当たり前だ。現実なのだから。ところがこう思ったのは初めてなのだ。

 

逆に言うとCGやなんかの技術の進歩のお陰で現実が豊かだということに気づけたのかもしれない。

 

先日、ゆりかもめに乗っていたら、レインボーブリッジに差し掛かるあたりで線路がぐるりと弧を描く地点があった。車両はいくつもの鋼製のゲートをくぐって、その向こうには鋼製だか樹脂製だかの網があり、その向こうにはお台場の景色やセメント工場や、海や空が見えた。もちろん車両は動いているので、車両を覆う鉄骨は頭上や左右をすみやかに駆け抜けていく。網だって流れていき、それより遥かにゆったりしたスピードでセメント工場や空に浮かぶ雲が、視界の端から端に流れていく。

 

子供の頃、レーシングゲームリッジレーサーとかデイトナUSAとか。)をやっていたときは、こんな風景はみられなかった。平たいサーキットと、平面にプリントされたような観客と、書き割りのような遠景があるだけだった。ちょっと込み入った景色にさしかかると処理落ちしたものだった。今のゲームならもっと、ぬめぬめと描画するのだろうけれど。

 

レーシングゲームのソフトの中にはコースの造形や、車両の制御や、パラメーターの表示やというデータがもれなく準備されていて、プレーヤーの操作に応じて、データを処理して音や画像を届けてくれているのだと思う。ところが、データの総量や処理能力に限界があるので、限られた表現をしているのだろう。

 

ところが現実のデータや対応力にはゲームのような制限がない。言ってみれば世界最大のストレージだかメモリだかなのだ。もちろん不自由もある(どこでもドアなんかは体験できない)。けれども、今ファミレスで白ワインを飲みながら三つ折りキーボードでこれを携帯に打ち込んでいるが、サッとグラスを手に取って右目に近づけ、左目を閉じたらば、右目からグラスの曲面に応じて歪んだ禁煙席の景色が届けられる。この処理だって現実の側が勝手にやってくれるわけで、自分はテレビを眺めるのと同じ労力でこれを享受することができる。現実だから当たり前だが。

 

時間の流れにも同じことが言える。仕事で、数ヶ月ぶりくらいに人に連絡して、「あの件はどうなりましたか?」と訊くことがある。仕事上の関わりなので、まるで縁遠い人で大体遠くに住んでいる。そんな人にかけて、尋ねる。

 

すると「予定通りだ」とか「遅れている」とかいった回答を必ず得られる。しかも「○○が発覚したため遅れている」とか「□□のために中止した」といったディテールが伴っていて、その都度「自分に流れた時間と同じだけの時間があっちにも流れたんだな」と思ってしまう。「なんの話?」と言われることはない。数ヶ月も経っていて、会ったこともないような人が同じ事柄を継続して把握しているのだ。例えば、ロマンシングサガ2なんかでかつて訪れた街に行って人に話しかけても、こんなリアルな反応はしない。当たり前だ。ゲームなのだから。

 

とは言っても、長い人生で突然こんなことを言い始めるのはおかしい。こんな風に現実を眺められたことはなかった。それどころか、何を見てもゲンナリする時期のほうが多かったように思う。なぜだろうか。単純に考えると、ゲンナリしていた時期は現実に見聞きするものに価値を認めず、もっとましな世界があると思っていたのだろう。マシな世界というのは、思い出とか、先々に思い描く何かとか、フィクションとかに引き寄せられていたのだと思う。

 

今もなおファミレスにいるが、ひっきりなしに人々が話していて、店員は歩き、客がやってきて、目の前のワインは速やかに減っていく。お会計はしないといけないが、これを体感すること自体には料金もかからず、望めば70歳とか80歳までこんなレスポンス性に優れたリッチな場所にいられる。来週も肝臓をちょくちょく休めて、長生きせねば。